震災から1年が経ちました。
我々は「この悲劇を忘れないようにしよう。忘れてはいけない。」などと言いますが,忘れようにも忘れられない被災地の人々の心を思うと,胸が痛みます。
昨年の4月末,自分にも何かできることはないかと思い,被災地のいくつかを訪れました。
正直,当時はまだ復興とはほど遠い状況で,がれきは積まれ,もしくは町全体が津波に飲み込まれたような状況の場所もあり,想像をはるかに超える状況でした。
そのような中,特に心に残っているのが,田老町という町のことです。
田老町というのは,岩手県の太平洋側にある町で,過去の明治三陸大津波や昭和三陸大津波で甚大な被害を受けた経験を持つ町です。
私がこの町を知ったのは,大学時代,「三陸大津波」(吉村昭著)という本を読みながら三陸沖を気動車でトコトコと旅したときが初めてでした。三陸沖を旅をするのだから,三陸の本でも読もうと思ってこの本を読んでいると,田老町のことが何度も出てきます。そこで何となく立ち寄りたくなって,立ち寄ってみました。
その時目にした田老町の光景は,それはすごいもので壮観でした。
家々の屋根より高い防潮堤が(もう見上げるような高さでした),二重に張り巡らしてあり,それはまるで城塞都市のようでした。その防潮堤は、「田老万里の長城」と呼ばれているということも町のどこかに書いてあった記憶もあります。
二重の防潮堤の立ち方も特徴的で,海に面して真っ向から立ち向かう防潮堤と,その背後に海に対して斜めに立っている防潮堤がありました。
防潮堤の上は歩けるようになっていましたが,そこから見るとアルファベットのXを描くような形になっています。
当時は津波の恐ろしさなど知る由もありませんでしたから,この防潮堤が津波を防げないような事態などとても想像できませんでした。
昨年の3月11日,津波が三陸沖の各地に甚大な被害を引き起こしていると聞いたとき,田老町のことを思い出しました。あのXの防潮堤も津波を防げなかったのだろうか…。
そして,昨年の4月に田老町を訪れると,そこには変わり果てた町の姿がありました。改めて津波の恐ろしさを感じずにはいられませんでした。
ただし,Xの防潮堤については,思わぬ姿が目に飛び込んできました。
海に対して真っ向から立ち向かう防潮堤は,無残なまでに破壊されていました。学生時代に見た絶対に破壊されることがないように見えた姿からは想像できない姿になっていました。
ただ,背後に海に対して斜めに立っている防潮堤に関しては,海に対して真っ向から立ち向かう防潮堤とは対照的に、原形をとどめ,なお防潮堤としての姿を残していました。
詳しいことは自分には分かりませんが,海に向かって真っ向から立つ防潮堤は,津波をまともに受けて破壊されてしまったが,海に対して斜めに立つ防潮堤は,津波を受け流す形で何とか持ちこたえたのかもしれません。
どういう経緯でこの2つの防潮堤が建設されたかは知る由もありませんが,最初に受け流す形の防潮堤が立ち,その後に海に真っ向から向かう防潮堤が立ったということです。
今回の大津波で,田老町が甚大な被害にあっていることは一目瞭然でした。多くの人が亡くなられたとも聞きます。
今回の大津波に対して,防潮堤が被害をくいとどめるのにどの程度の効果があったのかは難しい問題だと思いますが,防潮堤が津波を防ぎきれなかったとしても,津波の第1波を受け止め,もしくは少しでもその影響を減殺し,住民が高台に避難する時間を稼いだ側面があるとしたら,あのXの防潮堤は体を張って津波から住民を守るというその責任を(すべてではないにしてもその一部でも)全うしたのかもしれません。
今回の津波で亡くなられた方々の冥福をお祈りするとともに,被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。