ルネ・マグリット展とそのほか

ルネ・マグリットが好きです。
来年3月から東京で大きな展覧会があるというので楽しみにしています。

マグリットの絵で好きなもののひとつに、「光の帝国」という絵があります。
空は晴れて明るいのに、木々の下はすでに夜で、部屋や街燈がぼんやりと灯っているという絵です。不安な絵に感じる方もいるようですが、私はこの絵を見ると落ち着きます。
当事務所は日比谷公園の中にあるのですが、日比谷公園に面して、この絵に似た街燈が設けられた通りがあり、夕方早い時間にそこを通ると、まるでこの絵のような色合いの空気の時があり、そのたびにこの絵を思い出します。マグリットの絵はとても形而上学的で哲学的、へんてこりんなのに、本人は極めて凡人然とした小市民的な人物であったという(あえてそのように振る舞っていたという話もあるようですが)話を読み、何か感じるところがありました。

少し前には友人とヴァロットン展に行ってきました(平成26年9月23日に終了)。
いずれもグッとくる絵が多く、彼の諧謔精神に、思わず絵の前でひとりニヤニヤしてしまいました。
特に私が好きなのは「ペルセウスとアンドロメダ」という絵です。男と女の哀しい(ばかばかしい)すれ違い。ハハハ、こういうのあるよなあ、と。

その他にも、「貞節なスザンナ」や、「夕食、ランプの光」など。

ヴァロットンは、私はモデルの内心には興味がない、モデルの外に現れているものだけを描くのだというような趣旨のことを述べていたということなのですが、いやむしろよくもここまでモデルの内面(ヴァロットン自身の内心かもしれない)をたった一枚の絵で表現し切ることができるものだ。「ペルセウスとアンドロメダ」のアンドロメダも、ペルセウスも、(もちろん)会ったことがないのに、どんな性格の人か、手に取るようにわかるようです。

そうするとこの言葉は実際に彼が描いたものとは真逆のように思えます。この言葉はヴァロットン自身が絵というものを(本当は)どう表現したいのかという、その目指すところの言葉なのでしょうか。あるいはヴァロットンには、人の内心すら外に現われているものとして透かし見えていたのか。この言葉も噛み砕くのに少し時間がかかりそうです。
この展覧会では図録も手に入れましたので、じっくりと見返すのが楽しみです。

本当はいま色々書面を書かなければならないのですが、忙しい時ほど、こういう余談を書いてみたくなるものです。そろそろ、書面作成に戻ることとします。

BGM:eclipse’s (Change Clothes)/Punpee feat.sugbabe

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